(首里城)
日本は今でも米国の植民地化の国であると良く言われます。
なぜなら、総理大臣率いる日本の与党は、
いつも米国に右ならえしているからです。
どこかに日本人としての誇りと意志をもつ人はいないものか?
と思っていたら、過去の歴史を振り返った時にいました。
その人のことについて今日は書いてみたいと思います。
目 次
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■瀬長亀治郎
その人の名は瀬長亀治郎・・・
1907年に沖縄県に生まれ、2001年に亡くなられました。
彼は日本の政治家であり、
太平洋戦争後に米国が沖縄を統治していた時、
合法政党の沖縄人民党を組織し、
米国による統治に抵抗する運動を行った人物です。
彼は大変多くの人々に愛され信頼され、
そして、米国人に恐れられた人でした。
■沖縄戦
この戦争は、1945年3月26日から6月23日まで続いた戦争でした。
実際には、日本政府が、
8/14にポツダム宣言を受諾後の8/15まで戦争が続きました。
沖縄県外の兵士も含めると、
沖縄県民のほとんどの成年男子~65,000人~が
}戦闘員として駆り出されていました。
この状態で、沖縄戦の役割は
この島で自らの血を流して米国を食い止めることでした。
日本は、首里の司令部は壊滅してし80%が壊滅状態でした。
沖縄での日本の負傷者数は188,000人を超え、
沖縄県出身の死者が122,228人、
そのうち、民間人が94,000人でした。
この数字からみて、
沖縄戦がいかに残酷な戦争だったかわかると思います。
そして、この戦争が、瀬長の米国政府の日本統治に対する
ひたすらな抵抗の大本にあると言っても過言ではないと思います。
詳細については、
「日本の沖縄戦とは何だったのか?沖縄県民の被害者は?」を参考にしてください。
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■瀬長の経歴
彼は言い伝えによると、非公式の共産党員であることを隠しながら、
以下の経歴を歴任したと言われています。
- 沖縄県は、1945年の沖縄戦で日本が敗戦し、米国の統治下にありました。
その時に、瀬長は、沖縄人民党を組織化し、
1947年7月20日に結成されました。 - 返還前の沖縄では、立法院議員に当選、
そして、那覇市長を歴任しました。 - 国政参加選挙では、衆議院議員に当選しました。
- 沖縄が返還された後は、沖縄人民党を共産党へ合流させました。
- 沖縄人民党所属として、衆議院議員を通算7期つとめましました。
■瀬長は二回逮捕されたのち那覇市長に当選!
私が彼の経歴で非常に驚かされたのは、過去に三回ほど逮捕されたということです。
- 1928年3月、高等学校のときに、3・15事件で、共産党員が一斉検挙されたのですが、
党員をかくまった疑いで「犯人隠匿」(はんにんいんとく)の罪になり、
20日間勾留されたのち、起訴猶予処分になりました。
そのために、高校からは退学処分を受けてしまいました。 - 1932年、丹波トンネル労働争議を指導し、
治安維持法違反の容疑で検挙されてしまい、
懲役3年の刑をうけ、横浜刑務所に入れられました。 - 1952年4月1日、琉球政府設立の創立記念式典で、
米国軍の将軍達が見守るなか、
議員に呼ばれても無視して立ち上がるのを拒否しました。
(詳細は「瀬長の米国に対する抵抗のエピソード」を参照) - その後、1954年10月に、米国政府により、
沖縄から退去命令を受けた人民党員をかくまった容疑で逮捕され、
懲役2年の刑をうけまた投獄されました。 - 1956年4月に、出獄し、12月に那覇市長選挙に出馬し、
当選してしまいました!
なんという恐るべき人なのでしょうか?!
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■瀬長の米国に対する抵抗のエピソード
1952年4月1日、首里城跡地は遺産は全て跡形もなく粉々になり、
米国軍はそこに琉球大学を建設していました。
そして、米国の言いなりになる行政官をたてた
琉球政府を設立することに決定したのです。
これこそは、米国が諸外国との戦争に勝った後に、
その国を内部から自分たちの言いなりになる国に作り変える手口だと思います。
その新政府の創立式典の後に、
代表の議員が宣誓文を読み上げ、そして、
議長が立法院議員の名前を一人一人読み上げていきました。
議員は一人ずつ立上り、
米国の書いた宣誓文を承認するように脱帽したのですが、
その中で、1人だけ、立ち上がらず、それを拒否した人がいたのです。
それが、瀬長でした。
周囲の議員たちが、米国に恐れを感じ、
瀬長の態度に怯える心境であったかもしれませんが、
それにもかかわらず、瀬長はきっぱりと米国に対する抵抗の意を表したのです。
そこにいた将軍達の顔は、真っ赤になっていたそうです。
■米国の制裁措置にも負けず、市民は瀬長を指示!
これに対抗するかのように、
瀬長が力強く反米を公の場で主張するので、
それを危惧した米国政府は、
米国が管理していた琉球銀行の那覇市への補助金と
融資をストップすることにして、預金凍結まで行いました。
これにより、市の財政は困難な状況に追い込まれたのですが、
その時、瀬長市長は、市民に対して自主的な納税による
財政の確保をするべきとの呼びかけをして、
市民のそれに対する反応は、その納税率を見れば明らかでした。
瀬長当選前は納税率が77%、
瀬長当選後は、86%、
頂点に登った時で97%だったのです!
これは市民が瀬長を信頼し、
瀬長を本当に支持していたということです。
米国側は、1954年に瀬長が投獄された事を理由にして、
彼を追放して被選挙権を彼らから剥奪しました。
そのために、瀬長は市長の座から降りる事になりました。
しかし、1967年12月に、
その瀬長に対する府令が廃止されたので、被選挙権を回復し、
1968年には、第八回立法院議員選挙で立法院の議席を獲得したのです。
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■瀬長は共産党員として活動していた可能性
彼は反米市民活動家として活動していましたが、
彼は、日本共産党琉球地方委員会の指導の元に、
闘争をつづていた可能性があります。
とすると、当時の共産党はすごかったんですね~
■瀬長亀次郎の映画化
米国の統治に抵抗した瀬長亀次郎のドキュメンタリー映画がいよいよ、
沖縄県那覇市で8月12日から桜坂劇場で上映されます!
その後、東京で8月26日に上映されます。
監督は佐古監督です。
彼は筑紫哲也ニュース23の番組でキャスターをずっと勤めていた人ですね。
「米国が最も恐れた男、その名は亀治郎!」
日本は此の人に学び、此の人にならって、
米国の日本統治を拒否しなくてはいけなと思いますね!
日本は、できるだけはやく、独立国家にならなくてはいけません。
いつまでも、米国の言いなりになり、政治をしていてはいけません。。
はやく観たいなぁ~この映画。
観た人は感想を書いてほしいなぁ~。
※参考文献:
- 瀬長亀次郎
- 「アメリカが最も恐れた沖縄の男」瀬長亀次郎の一生涯
- 沖縄「不屈」の象徴を映画化 瀬長亀次郎氏描く、8月公開 佐古氏がメガホン
↑記事の文章の一部:
「米統治下の沖縄で圧政に抗議する姿勢を貫いた政治家の
瀬長亀次郎さんを描いたドキュメンタリー映画
「米軍(アメリカ)が最も恐れた男 その名は、カメジロー」
(佐古忠彦監督)が8月12日から那覇市の桜坂劇場で …
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